「信じるものはだれでも」 06.01.08
使徒言行録10:34〜48
<イエスについて、この方を信じる者は、だれでもその名によって
罪の赦しが受けられる…。>
キリスト教会は、人間の行いや業績によるのではなく、信仰に
よって義とされ、信仰によって救われることを、大切にしています。
しかし、「信仰」だけでは何か足りないように感じてしまうことが
あります。
それだけで救われるのは、虫が良すぎる様に考えて
しまうのでしょう。 しかし、神さまが、
イエスさまを信じる者はだれでも罪の赦しが与えられ、永遠の命に
入れられるという道を開いてくださったのです。
それは、喜び感謝すべきことであって、
信じるだけでは物足りないかのように考えるのは、神さまの救いの
道を疑う罪ではないでしょうか。
カイサリアの町で異邦人のコルネリウスたちに聖霊が降った
今日の場面は、カイサリア・ペンテコステと呼ばれます。
エルサレムで・ペンテコステと同様のことが起こりました。
ユダヤ人たちは、割礼を受けていない異邦人が、自分たちと
同じであることに大いに驚きました。彼らも、信じる者はだれでも
救われることを知っていますが、無意識のうちに、割礼という
プラスアルファーを救いの条件としていたからです。
他者の救いに関して、プラスアルファーの条件をつけることが
あるのではないでしょうか。あの人はこれが出来ないから、
まだ救われない。 もっと良い人にならなければ、救われない。
そんな風に人を裁き、評価し、批判しようとする傲慢の罪が
あります。
また、自分自身に対しても、信じること以外の条件を勝手に
つけてしまうことがないでしょうか。良いことをしないと救われないと
いった思いがなかなか頭から離れず、救われている確信が
揺るぎます。
救われた者の信仰生活や、証しの生活としてプラスアルファーを
身に着けていくことは尊いことですが、それは救いへの応答で
あって、条件ではありません。
イエスさまを信じる信仰によって救われることを繰り返し心に
刻みたいのです。
そこにこそ、救いの確信が生まれます。